人気ブログランキング | 話題のタグを見る

じんくんのWEB日記


by jinkun_40
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

「教師であることの意味・・・」

以下は3月29日の記事です。http://www.icbc.net/JOSIE/20050329.htmlより

「私の兄弟たち。 多くの者が教師になってはいけません。 ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)

若いときは、純粋な意味で神の為に(時に肉欲も混じって)、リーダー、牧師になることに憧れたりするものだ。
私の人生を振り返っても、キリストを信じて間もないとき、神の為に何かをしたいと考えた。 それはある意味では、リーダーシップのある牧師の働きを指していた。
始めて大きな伝道集会・クルセードに行った夜、滝元明氏の大胆な話し振りを見て、おれもあういう風に、未信者にズバズバと福音を語りたいと思った。

あれから30年が過ぎた。今はどう考えるか?
自分の場合、あれは若さ故の単なる野望かな・・・と思った。
今はできたら、リーダーなんてしたくない。 なぜなら、表に出る分だけ責任が増えるし、どこか知らないところで評価されるので、怖いと思う。
たまにありもしない批評を聞いて、話すなら私のところに来て堂々と言ってよと感じる。 私の耳に入ったのは数回だけであるが、忍耐と思いながらも嫌な気持ちになる。


日本は「出る杭は打たれる」競争社会なんで、目立つことをやると狙われる。 アメリカでは新しい試みをすると歓迎されるのに、この国では反対だ。
リーダーは育たない環境にある。 競争の価値観があるので、前に出ると引き下げようとする。
日本社会にヒーローが生まれて来ないのはココが原因だ。
正しい動機で忠実にリーダーの働きをしている方々、お疲れさま!
教師は、牧師は、リーダーはみんな覚悟しよう!
教師には格別きびしいさばきが下るから・・・

80年代、教勢に弾みがついて大きな教会になった。 三百人を超える若者と5つの株分け教会ができたとき、自分はリーダーにむいていると感じていた。
しかし、90年代に入って教勢が落ちたとき、私の心は世の終わりのようになり、自信は消えた。
 主任牧師をやめて副牧師に格下げして欲しかった。 いや、自分の責任を受け継いでくれる人を捜した。
が・・・見つからなかった。 神学校時代の友人に250人までに減った教会の後任になって欲しいと頼んだが、断られた。
オーストラリアのブリスベン、アメリカのフロリダ・オーランドに逃げようとしたが、道はふさがれた。 「牧師、教師なんか嫌だ!逃げたい!」と叫んだ。



★★ 人は責任を持つことで成長する。 責任がなければ、未熟なままだ。
人を育てるとき、育てようとしている相手に対して、少しずつ責任を任せていく必要がある。
 と同時に、その人となりも磨かなければならない。

もし、私が牧師を育てるなら、3つのポイントから育てる。
私自身は今まで自分自身で牧師を育てて来たが、もし神学校に送るなら、この三つをクリアーできるところが望ましい。
神学と理論を教えるだけでは、リーダーは育たない。
リーダーは、経験によって育つのだ。 となると、育てる人が父になっていなければならない。 子供を育てるのは父だからだ。
ときに(1)人格ができてないまま、 (2)神への忠実さがないまま、ひどい時には (3)牧会の賜物・能力がないのに既存の教会に招聘され、悲惨な結果が待ち受けている。
既存の教会自体、もうすでに固まってしまった皮袋なので、難しいが・・・
無意味なことで、さばかれないリーダーとなるためには、どうすればいいか?
「教師」とは教える人、牧師、伝道者、預言者、そして使徒も・・・子供の教師も、若者のリーダーも・・・みんな教える人だ。
だから責任が増えれば増えるほど、格別きびしいさばきを受けやすい。

もし、私が牧師を育てるなら、聖書の学びとともに、次の三つを建て上げる。
(1)賜物
  一緒に生活することにより、彼の賜物、能力が何かを探す。 これらは責任を負うことによって生まれてくるものだ。 責任がないうちは賜物が分からない。
  賜物が見えないならば、あえて牧師には勧めない。 他の何に向いているかを探す。 私の責任は、賜物、能力を引き出し、のばすことだ。
(2)忠実
  その人物が、神とつながっているかどうかが次に重要だ。 祈りの時間が長いからといって神とつながっていないこともある。 話すことば、態度、そして「変えられる心」があるかどうかが最優先順位だ。 人にというより神に忠実かが気になるところ。 一番簡単な見極め方を話そう! それは、その人が神から教えられたことを語ったとき、「感動があるか?」である。 神と関わっている人には、教えに感動がある。
(3)人格
  人格が整えられる為には、「解放」「従順」「召し」に生きる必要がある。 結局は神への従順であるが、罪も弱さも光の中に出して変えられると、「従順」がしやすい。 神の心を知っているか?
  告白しあう解放フレンドがいるか? 人格は仲間との関係によって整えられる。 その人のうちに問題となる人格があるならば、私は放っておかない。 話し合い。 悔い改めあい。 解放しあい。 従いあう。
  そうしないと、後々大変なことになる。 彼は牧師になりたいのなら、直すべきところは直さないと、次の弟子を育てられない。 つまずきの元にもなる。 「さばきにあう」前に直すべきだ。
  イエスの弟子たちもその辺は訓練させられ、恥もいっぱいかいた。
「ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」
さばきにあう前に、さばきの原因を減らそう!
by jinkun_40 | 2005-04-24 21:41 | Josie's Web